「今日から元妻とその両親も、ここで一緒に暮らすから」

仕事を終え、いつもより少し早く家に帰った日のことだった。
玄関のドアを開けた瞬間、私は思わず足を止めた。
「……え?」
リビングのほうから、聞き覚えのない笑い声がする。
テレビの音。
食器がぶつかる音。
そして、まるで何年も前からこの家に住んでいるかのような、遠慮のない話し声。
私は靴を脱ぎながら、嫌な胸騒ぎを覚えた。
ここは、私――千里、33歳と、婚約者の輝樹、30歳が結婚生活を始めるために引っ越してきたばかりの新居だ。
4LDK。
高層マンションの最上階。
窓からは街の夜景が一望できる。
来月には婚姻届を出す予定で、家具も家電も二人で選んだ。
少なくとも私は、この家を「二人の新しい人生が始まる場所」だと思っていた。
なのに。
リビングに入った私の目の前にいたのは、三人の見知らぬ男女だった。
ソファの真ん中には私と同じくらいの年齢の女性。
その左右には、60歳前後と思われる男女。
テーブルの上には私が買っておいたお菓子が開けられ、冷蔵庫に入れておいた飲み物まで勝手に出されている。
三人はテレビを見ながら大声で笑っていた。
私はしばらく言葉を失った。
「あの……どちら様ですか?」
私が尋ねると、女性がゆっくり振り返った。
そして、まるで私のほうが招かれざる客であるかのように眉をひそめる。
「あなたが千里さん?」
「そうですけど……」
女性は私を上から下まで眺めると、薄く笑った。
「へえ。本当に地味なのね」
「……は?」
初対面の人間に突然そう言われ、頭が追いつかなかった。
すると女性は、何でもないことのように名乗った。
「私、美也子。輝樹の元妻」
その瞬間。
時間が止まったような感覚になった。
「……元妻?」
輝樹が一度離婚していることは知っていた。
三年前。
まだ輝樹が無職だった頃、美也子は別の裕福な男性と関係を持ち、そのまま輝樹を捨てるように離婚した。
その後、美也子は実家に戻り、二人は連絡も取っていない。
私はそう聞いていた。
その元妻が、なぜ私たちの新居にいるのか。
しかも、両親まで連れて。
「そちらの方は?」
「私の父と母」
美也子は平然と答える。
私はますます意味が分からなくなった。
「どうして皆さんがここにいるんですか?」
美也子は答えなかった。
代わりに、母親らしき女性が不愉快そうな顔をした。
「輝樹くんから聞いてないの?」
嫌な予感がした。
私はすぐにスマートフォンを取り出し、輝樹に電話した。
数回の呼び出し音のあと、彼は何事もなかったかのように電話に出た。
『もしもし?』
「輝樹。今、家に帰ってきたんだけど」
『ああ』
「ああ、じゃない。美也子さんとご両親がいるんだけど。どういうこと?」
数秒の沈黙。
そして輝樹は、驚くほど軽い調子で言った。
『もう来てたんだ』
私は耳を疑った。
「知ってたの?」
『知ってるも何も、俺が呼んだんだから』
「……は?」
『本当は俺が帰ってから、みんな揃ったところで話そうと思ってた』
胸の奥が冷たくなっていく。
「何を?」
輝樹は言った。
『今日から美也子と、美也子の両親もそこで一緒に暮らす』
一瞬。
言葉の意味が理解できなかった。
「……もう一度言って」
『だから、今日から五人で暮らすんだよ』
「どうして?」
『美也子のお父さん、会社をクビになったんだ。それで家も手放すことになって、今住むところがないらしい』
「だからって、なんで私たちの家なの?」
『困ってるんだから助けるのが普通だろ』
私は思わず声を荒らげた。
「普通じゃないでしょ!」
リビングにいる三人がこちらを見る。
それでも構っていられなかった。
「ここは私たちが結婚して暮らすために用意した家でしょう? どうしてあなたの元妻と、その両親まで一緒に暮らすの?」
『部屋余ってるじゃん』
「そういう問題じゃない!」
『じゃあ何が問題なんだよ』
「全部よ!」
私は震える声で言った。
「しかも、どうして私に一言も相談しなかったの?」
すると輝樹は、面倒そうにため息をついた。
『相談したって千里は反対するだろ』
「当たり前でしょう!」
『だったら相談する意味ないじゃん』
耳を疑った。
つまり彼は、私が反対すると分かっていた。
だから相談しなかった。
話し合うつもりなど、最初からなかったのだ。
「結婚する相手に何の相談もせず、元妻一家を住まわせるって決めたの?」
『理屈じゃないんだよ』
輝樹の声が少し強くなる。
『俺が助けたいんだから助ける。それでいいだろ』
「よくない」
私は即答した。
『千里さ』
急に、彼の口調が説教するようなものに変わった。
『もう少し人の気持ち考えられないの? 美也子たちは今、家もないんだぞ』
「だったら行政に相談するとか、賃貸を探すとか、方法はいくらでもあるでしょう」
『金がないんだよ』
「それをどうするの?」
『そこなんだけどさ』
嫌な間だった。
次に彼が口にした言葉を、私はたぶん一生忘れない。
『千里が養ってやってよ』
「……何?」
『だから、美也子たちの生活費』
「どうして私が?」
『俺より千里のほうが給料高いだろ?』
私は言葉を失った。
輝樹の手取りは月19万円ほど。
私は大手企業――A社に勤めており、確かに彼より収入は多い。
しかし、それとこれとは全く別の話だ。
「あなた、自分が何を言ってるか分かってる?」
『分かってるよ』
「私に、あなたの元妻とその両親を養えって言ってるの?」
『言い方悪いなあ』
輝樹は不満そうに言った。
『困ってる人をちょっと助けるだけだろ』
「私は一緒に住むことすら同意してない」
その瞬間。
輝樹の声が冷たくなった。
『じゃあ婚約破棄する?』
「……」
『俺の大切な人たちを助けられない女とは、結婚してもうまくいかないと思うけど』
大切な人たち。
その言葉が胸に刺さった。
私は婚約者。
美也子は元妻。
それなのに、彼の中で守るべき相手は誰なのか。
答えは十分すぎるほど明らかだった。
私は小さく息を吐いた。
「分かった」
『分かればいいんだよ』
輝樹は勝ち誇ったように言った。
どうやら私が折れたと思ったらしい。
だから私は続けた。
「じゃあ婚約破棄でいい」
『……え?』
「聞こえなかった? 婚約破棄でいいって言ったの」
電話の向こうが静かになった。
『ちょ、待てよ。何ムキになって――』
私は電話を切った。
そしてその場で最低限の荷物をまとめ始めた。
財布。
通帳。
仕事関係のもの。
貴重品。
着替え。
パソコン。
美也子はソファに座ったまま、にやにやしながら私を見ていた。
「本当に出ていくの?」
「ええ」
「ふーん」
楽しそうだった。
まるで自分が勝者になったと思っているように。
私は玄関へ向かい、最後に三人を振り返った。
「残っている私物は後日取りに来ます」
美也子の父親が不機嫌そうに言う。
「邪魔ならこっちで処分しておくぞ」
私は笑顔で答えた。
「勝手に触らないでください」
そして、はっきりと言った。
「破損、紛失、処分したものがあれば、きちんと弁償してもらいますから」
そのまま私は家を出た。
背後で、美也子の笑い声が聞こえた。
その時の彼女はまだ知らなかった。
自分たちが今、誰の家でくつろいでいるのか。
そして――
輝樹が「成功した男」だという前提そのものが、完全な勘違いだったことを。
翌日の夜、元妻から電話がかかってきた
その日はホテルに泊まった。
怒りはあった。
悔しさもあった。
けれど、不思議と涙は出なかった。
むしろ時間が経つにつれて、
「あのまま結婚しなくてよかった」
という気持ちのほうが強くなっていた。
問題は今後だ。
婚約破棄。
荷物の回収。
各種手続き。
そして何より――あの部屋。
私はスマートフォンのメモに、やるべきことを書き出していた。
その時だった。
知らない番号から着信が入った。
「はい」
『千里さん?』
聞き覚えのある声。
「……美也子さん?」
『そう』
私は眉をひそめた。
「どうして私の番号を?」
『輝樹のスマホ見たら入ってたから』
悪びれる様子は一切ない。
そして彼女は、楽しそうに笑った。
『昨日はごめんねえ』
もちろん、謝罪する気などない声だった。
『でも、思ったよりあっさり出ていったからびっくりしちゃった』
「何の用ですか?」
『別に? ちょっと話したかっただけ』
私は切ろうとした。
その瞬間、美也子が言った。
『あなた、本当に地味よね』
私は黙った。
『服も普通だし、髪も普通。なんていうのかな……ドラマだったら主人公じゃなくて脇役って感じ』
「それを言うために電話したんですか?」
『まあまあ』
美也子は笑う。
『でもよかったじゃない。婚約破棄になって』
「何が?」
『だって、これで私と輝樹がやり直せるでしょ?』
なるほど。
ようやく目的が分かった。
彼女は私に勝利宣言をしたいのだ。
「やり直したいんですか?」
『当然』
「三年前、あなたから離婚したんですよね?」
一瞬、電話の向こうが静かになる。
私は続けた。
「輝樹が仕事を辞めて無職になった時、あなたは別の男性と付き合い始めた。そして離婚した」
『昔の話じゃない』
「その男性とは?」
『別れた』
予想通りだった。
「それで輝樹に戻ろうと思ったんですか?」
すると美也子は、心底不思議そうに答えた。
『だって今の輝樹、昔とは全然違うじゃない』
「違う?」
『A社で働いてるんでしょ?』
私は黙った。
『しかも最上階の4LDK。あのマンション、普通の会社員じゃ住めないじゃない』
そこでようやく、すべてがつながった。
私は危うく笑いそうになった。
美也子は完全に勘違いしている。
『三年前は無職で、本当にどうしようもなかったけど』
彼女は続けた。
『今は大手企業勤務で、高級マンション暮らし。ちゃんと成長したんだなって思って』
「それで復縁?」
『そういうこと』
あまりにも分かりやすい。
「お金があるなら戻りたい、と」
『現実的って言ってよ』
美也子は悪びれもしなかった。
『結婚って生活だから』
その言葉だけは間違っていない。
だからこそ、私は確認した。
「輝樹から聞いたんですか?」
『何を?』
「A社に勤めているって」
『直接聞いてないけど、あの家に住んでるんだからそうでしょ?』
「……なるほど」
『何?』
「いえ」
私は笑いをこらえながら言った。
「ちなみに輝樹さんの今の手取り、知っています?」
『知らない。でもA社なら結構もらってるでしょ』
「19万円くらいですよ」
沈黙。
『……は?』
「月の手取りです」
『冗談でしょ?』
「本人に聞いてみればいいじゃないですか」
『でもA社なんでしょ!?』
「違います」
『……え?』
私は静かに答えた。
「A社に勤めているのは私です」
電話の向こうから音が消えた。
数秒後。
『……じゃあ、あのマンションは?』
「A社の社宅です」
『社宅?』
「正確には、会社が契約して社員に提供している借り上げ住宅ですね」
『待って』
声の調子が変わった。
『じゃあ……輝樹の家じゃないの?』
「違いますよ」
『じゃあ誰の……』
私ははっきり答えた。
「私に貸与されている部屋です」
また沈黙した。
先ほどまでの余裕たっぷりの態度は完全に消えていた。
『……嘘』
「嘘だと思うなら、輝樹さんに確認してください」
『でも、輝樹は何も――』
「あなたが勝手に勘違いしただけじゃないですか?」
『……』
「それでは」
私は電話を切った。
その時、私はまだ知らなかった。
美也子の勘違いが判明したことで、この騒動が終わるどころか――
むしろここから、一気に崩壊が始まることを。
「お前、会社に何を言ったんだ!」
翌朝。
仕事をしていると、輝樹から何度も電話が入った。
もちろん出なかった。
すると今度は大量のメッセージ。
《お前、何した?》
《会社から連絡来たんだけど》
《今すぐ電話しろ》
《美也子たちまで追い出されるってどういうことだよ》
私は画面を見て、ため息をついた。
別に私は特別なことなどしていない。
ただ会社に、
「婚約解消により、同居予定者が変更になった」
と報告しただけだ。
あの部屋は私の勤務先が契約している社宅だ。
利用者は私。
輝樹は、結婚予定の同居人として申請していただけ。
ましてや、元妻とその両親など最初から利用対象ではない。
会社に事情を説明すると、担当者は当然のように言った。
「登録されていない方の居住は認められません」
それだけだった。
私は輝樹に電話を返した。
『千里! どういうことだよ!』
第一声から怒鳴っている。
「何が?」
『俺たち出ていけって言われたぞ!』
「当然じゃない?」
『当然じゃないだろ! 俺は住んでたんだぞ!』
「婚約者としてね」
私は淡々と答えた。
「婚約解消したんだから、あなたが住む理由もなくなった」
『そんな急に言われても困るんだよ!』
「昨日、あなたが婚約破棄すると言ったんでしょう?」
『あれはお前を説得するために言っただけだ!』
思わず笑ってしまった。
「婚約破棄を脅しの道具にしたの?」
『脅しじゃない!』
「どちらでもいい」
私は言った。
「私は婚約解消を受け入れた。それだけ」
電話の向こうで、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
美也子だ。
『ちょっと代わって!』
そして電話の相手が変わる。
『千里! あんた最低!』
「昨日は“脇役”でしたよね?」
『そんなことどうでもいい! 私たちどこに住めばいいのよ!』
「知りません」
『父も母も家がないのよ!?』
「だから、それをどうして私が解決するんですか?」
『あんた高収入なんでしょ!』
思わず吹き出しそうになった。
昨日まで私を「貧乏で地味な女」と見下していた人間が、今度は高収入だから助けろと言っている。
「だったら輝樹さんに助けてもらえば?」
『月19万でどうしろっていうのよ!』
「それでも復縁したいんでしょう?」
『……』
痛いところを突かれたのか、美也子は黙った。
私は続けた。
「あなた、言いましたよね。結婚は生活だって」
『だから何よ』
「その通りだと思います」
私は静かに言った。
「月19万円の輝樹さんと、ぜひ現実的な生活をしてください」
そして電話を切った。
数日後、さらに驚く連絡が来た
荷物を回収する日は会社の担当者にも相談し、第三者に立ち会ってもらうことにした。
念のため、同僚にも一人来てもらった。
ドアを開けた瞬間。
私は絶句した。
部屋は、数日前とは別物になっていた。
散らかった食器。
ゴミ。
ソファには衣類。
キッチンには洗い物が山積み。
しかも――
私が大切にしていた食器の一部が割れている。
収納の中も勝手に開けられていた。
私は無言で写真を撮った。
「何写真撮ってんだよ」
輝樹が不機嫌そうに言う。
「記録」
「細かいな」
「弁償してもらうために必要だから」
すると美也子の母親が怒った。
「ちょっとくらい使っただけでしょう!」
私は彼女を見る。
「人のものを許可なく使って壊したら、弁償するのは普通では?」
「家族になるんだからいいじゃない!」
「なりません」
「え?」
「私は輝樹さんと結婚しませんから、あなたたちと家族になることもありません」
美也子の父親が苛立ったように舌打ちした。
「若い女は冷たいな」
私は何も答えなかった。
言い争う意味がなかった。
荷物をまとめていると、美也子が近寄ってきた。
「ねえ」
「何ですか?」
彼女は小声で言った。
「本当に輝樹と別れるの?」
「ええ」
「じゃあ……」
少し言いにくそうにしたあと、美也子は尋ねた。
「あんたが家賃払えば、私たちここに住み続けられない?」
私は数秒、彼女の顔を見つめた。
冗談かと思った。
しかし本気だった。
「どうして私が?」
「だって会社の家なんでしょ?」
「だから?」
「社員のあんたが契約したままにしてくれればいいじゃん」
思わず笑ってしまった。
「私が家賃を負担して、元婚約者と、その元妻一家を住まわせろと?」
「別にあんたは他で暮らせばいいでしょ」
ここまで来ると、怒る気にもならなかった。
「美也子さん」
「何?」
「昨日、自分で言ってましたよね」
「?」
「結婚は生活だって」
「だから?」
「でしたら、生活は自分たちで成り立たせてください」
彼女の顔が引きつった。
私は自分の荷物を持ち、最後に部屋を見渡した。
一時はここで幸せな結婚生活を送ると思っていた。
でも今は、不思議なくらい未練がない。
玄関を出ようとした時。
後ろから輝樹が呼び止めた。
「千里」
私は振り返る。
「……やっぱり婚約破棄、なしにしない?」
室内が静まり返った。
美也子の顔が凍る。
「は?」
「俺、考えたんだよ」
輝樹は言った。
「やっぱりお前と結婚したほうがいいと思う」
私はしばらく彼を見つめた。
そして聞いた。
「どうして?」
「どうしてって……好きだからだよ」
嘘だった。
少なくとも、それだけではない。
私は試しに尋ねた。
「じゃあ美也子さんたちは?」
「それは……」
輝樹が言葉に詰まる。
「別のところを探してもらう」
「輝樹!?」
美也子が叫んだ。
「だって仕方ないだろ! このままじゃ俺まで住むところなくなるんだぞ!」
その言葉ですべて分かった。
彼が戻ってきた理由。
愛情ではない。
住む場所。
生活費。
そして私の収入。
美也子も同じだった。
三年前は無職の輝樹を捨てた。
高級マンションとA社勤務という幻想を見て戻ってきた。
輝樹もまた、美也子たちを助ける費用を私に払わせようとした。
結局、この二人は似た者同士なのだ。
「お断りします」
私は答えた。
「なんでだよ!」
「あなた、自分で言ったでしょう?」
私は笑った。
「あなたの大切な人たちを助けられない女とは、結婚してもうまくいかないって」
輝樹の顔が青ざめた。
「だから、その通りにします」
「千里、待てって!」
「それに」
私は美也子を見る。
「お二人、やり直せるんですよね?」
「……」
「よかったじゃないですか」
私は二人に笑顔を向けた。
「邪魔者の私は消えますから」
今度こそ私は玄関を出た。
そして一か月後
輝樹から何度も復縁を求める連絡が来た。
最初は、
《冷静になって考えよう》
だった。
その次は、
《俺たちはもうすぐ夫婦だったんだぞ》
になった。
さらに数日後には、
《美也子たちのせいで判断を間違えた》
と責任転嫁が始まった。
そして最後には、
《頼むから戻ってきてくれ》
になった。
もちろん、すべて断った。
美也子たちがその後どうなったのかは、共通の知人から少しだけ聞いた。
社宅を出たあと、四人で暮らせる家など簡単には見つからなかったらしい。
保証人。
初期費用。
収入。
様々な問題があったという。
美也子は当初、輝樹との復縁を考えていたらしいが、彼の収入が本当に手取り19万円前後だと分かると、急激に態度を変えた。
そして二人は毎日のように喧嘩。
「話が違う」
「勝手に勘違いしただけだ」
「私たちを呼んだのはあなたでしょ」
「千里が払うと思ってた」
そんなやり取りを繰り返していたそうだ。
その話を聞いた時、私はようやく腑に落ちた。
輝樹は、最初から自分で彼らを支えるつもりなどなかったのだ。
自分は「困っている元妻一家を助ける優しい男」になりたい。
でも金は出したくない。
だから、
「千里のほうが稼いでいるから」
という理由で、私に負担させようとした。
つまり彼が差し出そうとしていたのは、
自分の金でも、
自分の家でも、
自分の生活でもない。
全部、私のものだった。
私の収入。
私の会社の福利厚生。
私に割り当てられた家。
私の時間。
私の労力。
それらを勝手に使って、
自分だけが「いい人」になろうとしていた。
結婚前にそれが分かったことだけは、本当に幸運だったと思う。
半年後
私は別の部屋へ引っ越した。
以前より少し狭い。
最上階でもない。
けれど、不思議なくらい快適だった。
誰かが勝手に冷蔵庫を開けることもない。
知らない人がソファでテレビを見ていることもない。
自分の予定を、自分の意思で決められる。
それだけで十分だった。
ある日。
仕事帰りにスマートフォンを見ると、久しぶりに輝樹からメッセージが届いていた。
《俺たち、本当にこれで終わりなのかな》
しばらく画面を眺めた。
以前の私なら、迷ったかもしれない。
三年間付き合った。
楽しい思い出だってたくさんある。
結婚式の話もした。
子どもの話もした。
一緒に年を取るつもりだった。
けれど今なら分かる。
結婚相手を見るなら、
「自分に優しくしてくれる時」だけを見てはいけない。
意見が対立した時。
お金が絡んだ時。
家族が絡んだ時。
そして、自分より誰かを優先したい時。
そんな場面で相手がどう振る舞うか。
そこに、その人の本質が出る。
私は返信欄を開いた。
そして短く打った。
《終わりです。お元気で》
送信。
すぐにスマートフォンをバッグへしまった。
駅を出ると、空はもう暗くなっていた。
以前住んでいた高層マンションほどではないけれど、街の明かりは十分きれいだった。
私は一人で歩きながら思った。
あの日。
「嫌なら婚約破棄」
と言われた瞬間。
私はすべてを失ったように感じていた。
結婚。
新居。
未来。
でも、本当は逆だった。
あの日失ったのは、
私を尊重しない婚約者と、
彼と築くはずだった偽物の未来だけ。
そして代わりに取り戻した。
自分の人生を、自分で決める自由を。
だから今では、あの言葉に感謝している。
「嫌なら婚約破棄」
――ええ。
本当に、その通りだった。
嫌だったから、破棄した。
ただ、それだけの話だ。